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霹靂火が妖怪研究を基に著した、小説『白鬼録(はくきろく)』を公開しております。

一ノ譚(いちのはなし) 後眼(うしろめ)

執筆:2010年1月

後眼(松井文庫『百鬼夜行絵巻』より)

[あらすじ]
明るく活発な大学2年生、青山耀子(あおやま ようこ)。
彼女の日常は、ゲームセンターの警備員の秘密を知ることで、不可思議な妖怪の世界へと近付いて行く。。。

ゲームセンターにて

「何コレ!?ありえないくらい掴んでるジャン」
「耀子(ようこ)、こんなに大丈夫なの?」
 クレーンゲームの周りで、見た目は高校生くらいの女子が二人と、大学生二人の女の子グループが屯(たむろ)している。
 耀子――と呼ばれた私服の女子高生――が操るクレーンに注目しながら騒いでいる。確かに大きなクマのぬいぐるみ三つを同時に移動させる荒業は、知らない人が見ても驚く光景であろう。
「だーいじょうぶ、これくらい平気だって♪」
 耀子はそう嘯(うそぶ)くと、クマの塊を素早くアクリルの筒の上に移動させた。クレーンの爪が開くと、クマが取り出し口に詰まった。
「あちゃー、またやっちゃったよ。掴むだけなら得意なんだけど、いつも出口で詰まっちゃうんだよね」
 耀子は焦る様子もなく、近くにいた店員を呼び寄せ、クマたちをゲットした。
「ハイ、これは杏(アンズ)ちゃん。こっちは聡巳(さとみ)で――一番大っきいのは有(ゆう)ちゃん!」
「エーッ、ずるいよ有希(ゆき)センパイばっかり!」
 布団を被ったクマをもらった高校生が、不服そうに口を開く。
「仕方ないでしょ、コイツら昔から仲良しなんだから。何なら、私のヨダレ垂らしてるクマと交換する?」
 優しく宥める聡巳に、高校生は――いいよ、とだけ応えると、俯(うつむ)きながら寝込むクマを抱き締めた。クマは間抜けな顔で寝息を発てたままで、笑いを誘う。

「あっ」
 有希は声を出してから、(しまった)という顔付きで皆に囁(ささや)く。
(ねぇ、あっち。非常口の近くで向こう向いてるのって、警備員じゃない?)
(ホントだ。私たちはいいけど、こいつら二人はお子ちゃまだから、見つかったらヤバくない?)
 聡巳は耀子に目線を送る。
(な、何よ!私はあんたたちとタメじゃない。ヤバいのは杏子(きょうこ)だけでしょ?!)
 どうやら、耀子は高校生ではなく、大学生のようだ。どちらにしろ、午前零時近くに繁華街のゲームセンターで高校生を連れているのは、宜(よろ)しいとは言えない。見つかったら補導され、職務質問の後、実家に連絡が入るであろう。特に耀子は幼く見えるので、執拗(しつよう)に確認されることは必至である。
(でも、ずっと向こうばっか見てるから平気だよ)
(あと一回、あのゲームでお菓子取ったら帰ろうよ。ね、耀子センパイ――)
 耀子は、警備員の方を見て、何か見てはいけないものを見たかのような表情で、凍りついていた。
(ねぇ、耀子――)
 有希の問いかけに、ええ――と生返事をして、お菓子がぶら下がっているゲーム機に近付いた。

 その時、警備員がいきなり振り返り、彼女たちの方へ猛然と歩み寄って来たではないか。その動きは無駄がなく、まるで人込みを擦り抜けているかのような素早さであった。
「ヤバっ!」
 耀子たちは、全力疾走でゲームセンターを飛び出し、帰途(きと)に就いた。

*   *   *   *   *   *   *   *   *


「でさー、危うく捕まるとこだったんだよ」
 有希は楽しげに、昨日の逃走劇を友人に話していた。隣に座る耀子は、顔は笑っているが少し浮かない感じである。
「でもさ、耀子まで捕まったらどうしようかと思ったよ。だって十九にもなってこの体だよ」
 聡巳は耀子の胸を指さす。微かな膨らみはあるものの、それは女性というよりは少女の印象を与える。
「ちょっと、からかわないでよ」
 顔を赤らめて反論する耀子に、聡巳は(講義始まるよ)と小声で囁いて口籠(くちご)もらせた。

(ねえ、耀子。昨日は何であんな顔してたの?)
(何のこと?)
(警備員が振り向く直前よ。あんた真っ青な顔して固まってたじゃない)
 ――耀子は、実は――と小さく呟(つぶや)いて、ノートの隅に何やら書き留め、有希に見せる。

〈けいび員のアタマ、後ろに目があった〉

「えっ!」
 大声に皆の視線が集まり、有希は気不味そうに笑った。
 教授の咳払いが教室に響く。

〈どういうことよ!そんなのありえないでしょ!?〉
 有希も筆談で応えた。
〈でも、はっきり見えたの。帽子を上げたツルツルあたまの真ん中に光る一つ目が〉
 興奮気味の有希は、こう返した。

〈それって、妖怪じゃない?〉

 耀子は〈妖怪〉の二文字に下線を引き、矢印で指してこう書いた。

〈コレ何て読むの?〉

 呆れながら有希は、〈ようかい〉とルビを振ってやった。そして、〈お化けのコト〉と小さく書き加えた。

有希と耀子の筆談



*   *   *   *   *   *   *   *   *


 この日の講義も、彼女たちの――少なくとも耀子の頭には全然入らなかった。このように毎度お喋りや筆談を行なっているのだから、昨年、四十単位ギリギリで進級した耀子の実力は、有希と聡巳の助け無くしては、この入試倍率〇・八倍の私立大学でも際疾(きわど)いほどである。
「さっきの話だけどさ、ホントに見たの?」
「うん――私にはそう見えたけど…」
 いつも勝ち気で明るい耀子が、何時に無く表情を曇らせる。
「じゃあさ、あの人に訊(き)いたら?」
「あの人って?」
 キョトンとした耀子に、有希はこう応えた。

「羅(ルオ)ゼミの迦具山(かぐやま)センパイ」
「えっ、あの民話オタクの?!」
 そうよ――と、有希は平然と応えた。
「だってあの人、2年も休学して全国の民話を調べて回ってたんだって。しかも4年生になったばかりの頃によ!」
「でも、彼の知識はホントにすごいって評判じゃない。噂だと講義中に教授の間違いを指摘して、そのままマイク分捕って講義始めちゃったらしいじゃない」
「――うん…じゃあ、夕方にゼミ室行ってみるわ」
 努めて明るく振る舞う耀子に、有希はバイトに行くと言って人文学科の棟を後にした。

*   *   *   *   *   *   *   *   *


 午後四時。耀子は地域科学科棟の羅(ルオ)ゼミ室の前にいた。晦日大学院地域科学科の二年生、迦具山(かぐやま) 博(ひろし)に会うためである。
「――失礼しまーす」
 耀子は、恐る恐るゼミ室のドアを開けた。
 室内は何処の国のものか分からない民具やお面、そして様々な書物で溢れ返っており、奇妙なお香の薫りが漂っている。宛ら塵芥溜(ごみた)めといった有り様である。

 その塵芥溜めの中心にある革の破れたソファーに、高鼾(たかいびき)を掻(か)く「鬼」が寝転がっていた。
 否(いや)、「鬼」と見えたのは、その人物が鼻の尖った奇妙なお面を着けたまま眠っていたからである。
「ひゃぁっ」
 耀子が素っ頓狂な声を上げて飛び退くと、「鬼」はむっくりと起き上がり、やぁ――と間抜けに挨拶をした。
「――ああ、驚かせてしまったね」
 「鬼」はお面を外し、ヒトになった。
 知性を感じさせる銀縁の眼鏡とは対照的に、ボサボサの髪の毛と縒(よ)れたポロシャツ、皺だらけのスラックスは、噂通りの変人であろうことを物語っている。

「あの――あなたが迦具山さんですか?」
 耀子は半ば確信をもって訊ねた。
 はい、僕が迦具山です――と、寝ぼけた様子で応えた。
「――あっ、これはですね、『トシドン』という鹿児島県下甑島(しもこしきじま)の民俗神で――イヤ、これはそのお面です。大晦日の晩に首無し馬に乗ってやって来て、悪い子供を懲(こ)らしめて『歳餅(としもち)』というお餅をくれるんです。えぇと、これは『お年玉』の原型(アーキタイプ)でして、これを貰(もら)えないと歳を取ることができないんです。…まぁ、『九州版なまはげ』とでも言った方が分かりやすいでしょうか。――兎(と)に角(かく)、その取材に昨日まで行ってまして、今朝飛行機で帰ってきたばかりなんデス」
 はぁ――と言ったきり、耀子は口をポカンと開けたまま、何も言い出すことができなかった。彼の唐突な〈講義〉を受けても、耀子にはさっぱり理解できなかった。
(お年玉は、昔はお餅だったんだ…)
 強いて言うならば、彼女に残った印象はこの程度であった。

「――で、僕に何か用かな?」
 迦具山は、惚(ほう)けている耀子に声をかける。
「え、…ええ――私、その……見たんです、昨日」
 何をだい?――と、迦具山は微笑みながら聞き返す。
「頭の後ろに目がある人です。ゲーセンで遊んでたら、後ろ向きの警備員さんが――その目で睨んで…」

「そいつァ、『後眼(うしろめ)』という妖怪だ」
 迦具山の意外な一言に、耀子は驚いた。如何に変人と呼ばれようと、この人物もやはり現代人の一人であり、このような超自然的な――というより寧(むし)ろオカルトな――目撃譚など、頭から信じようとするとは思えなかったのである。
「そんな……ヨウカイなんているはずないじゃないですか、こんな都会に!」
「いや、僕たちが知らないだけかもしれないよ」
 迦具山は冷たく嗤い、眼鏡の奥の瞳が鋭く光る。

後眼(松井文庫『百鬼夜行絵巻』より)


「後眼っていうのは、熊本県八代市の松井家に伝わる『百鬼夜行絵巻』に描かれている妖怪で、女物の着物を着た坊主頭の後ろに一つ目があって、一本の鉤爪でそれを指さしている姿が描かれているんだ。――でも、ゲーセンの見回りとは、奴らも大変だな」
 何やら感慨深げな面持ちで、迦具山は宙を仰いだ。
「――で、それは何か悪さをするんですか?」
 耀子は、怖々訊ねた。それが一番の不安の種である。
 しかし、
「いや、特に悪さをする訳ではないと思うよ。まぁ、解説も無いし、想像するしかないけど…」
 あとは――迦具山は、こう続けた。

「本人に訊いてみるといいよ」

*   *   *   *   *   *   *   *   *


 午後十時、耀子が「後眼」を見たゲームセンターに、二人はいた。先程の冴えない格好から、友達から無理矢理借りた明るいオレンジの短いダウンベストと黒のスキニージーンズを身に纏った迦具山は、耀子曰く「なかなかイイ感じ♪」である。
(どの辺で見かけたの?)
 迦具山が囁く。
(あの非常口の近くです)
 非常口の付近を見渡すと、確かに警備員がこちらを向いて立っていた。五十絡みの、肌の黒いベテラン警備員の胸には、〈うしろだ〉と印刷されたプレートが付けられている。
 ふと、こちらに背中を向けると、肩が凝っているのか、所在無げに首をぐるぐると回している。
(本当にこっちが見えるのかな?)
(たぶん――)

 その時、警備員がふと帽子を被り直した。耀子の言うようにツルリと剃られたスキンヘッドでは、クーラーの利く店内でも帽子の〈座り〉が悪いのであろう。

(あっ)))
 耀子は声を出し掛けて、思わず口を手で塞いだ。
 やはり見間違いでは無かった――でも、妖怪などというものが、実際に人間の住む町中の、しかも繁華街の若者の溜まり場で補導警備をしているなど、耀子本人もまだ信じ切れずにいた。

 ほぅ――と、迦具山は唸った。
(確かに、彼は『後眼』だ)
 一方、迦具山はといえば、先程から彼の職業に関しては少し不思議に思っているようだが、〈彼(ヨウカイ)〉の存在自体については何の異議も無いようである。
 それどころか、何処か旧知の悪友を訪ねるような感じさえ思わせる。

 と、警備員は店員専用の通路の方へ足早に移動した。休憩の時間なのであろうか。
 迦具山たちも、それに続くようにして〈スタッフ専用〉のロープの先を目指した。

〈スタッフ専用〉のロープの先



 暫く進むと、奇妙なことに気が付いた。
 廊下の左右に点々と、河原に落ちている石のようなものが置いてあるのだ。
「この石って、何のためにあるんですかね?」
 耀子が訊ねる。
「石というものは、昔から霊が宿るとか、神様が座って休むなんて言われているんだ。普通は特徴のある自然の石に霊の存在を感じた人々が信仰の対象とすることが多いけど、意図的に並べられた石には、別の意味があるんだ」
「別の――イミ?」
「――そう、それは〈霊的な通路〉を創るということさ。霊(カミ)は石を媒介として人間に霊感(インスピレーション)を与えることがある。さっき言ったように神様が休憩する場所なんだ。
 ほら、今でも登山道には〈休み石〉って書いてある石が多いだろう?あれは本来、人間が休憩する場所じゃ無くて、山(異界)と里(人間界)を神様が移動する時に休むための石なんだよ。
 つまり、並んだ石には霊的なものが移動するための中継地点としての役割があるんだ。ここを〈通路〉とする霊(モノ)がいるってことさ」

 迦具山は、感情を押し殺したまま通路を進む。

 五〇歩ほど進んだところで、奇妙なことが起きた。
 先程までは何事もなく進むことができたのに、急に壁に打付かるような感覚と共に、前に進むことができなくなってしまったのだ。
 困惑する耀子を尻目に、迦具山はバッグから指示棒を出すと、シュッと伸ばして足元を払いだした。
「何してるんですか?」
 耀子の質問に迦具山は、まぁ、見ていなよ――とだけ答えた。
 すると、

 バタン

 ――と、何かが倒れるような音がした。
 音はしたのだが、埃が舞う訳でもなく、況して先程からそこには何もなかった筈である。
 しかし、進むことができなかった通路を、迦具山はずんずん進んで行く。
「どうしたんだい?」
 笑いながら問いかける迦具山の方を、耀子は呆然と眺めていた。

「あれは、『塗壁』だよ」
「えっ、ヌリカベって、あの――鬼太郎の友達でコンニャクのお化けみたいなのですか?」
「ああ、『ぬり壁』は水木先生が創り出したキャラクターだよ。実際の『塗壁』は四角いコールタールの塊じゃないし、手に鏝(コテ)なんて持ってないよ。相手を体に塗り込めるなんて技も無いし――」
 迦具山の講義は続いたが、耀子の耳には届いていなかった。
(コンニャクじゃなくて透明なんだ――ヌリカベさん)

 更に進むと、事務室のドアに辿り着いた。
 ここに、警備員さん居るのかな?――と呟きながら、耀子は恐る恐るドアをノックした。
「すみませーん――…」

 ドアを開けると、室内は異様なほど暗かった。
 眼が闇に慣れてくるにつれて、天井を覆う蜘蛛の巣や床に積もる埃に気付いた。
 そこは警備員の詰め所などではなく、使われなくなって久しい物置のようである。とても人間が過ごすのに都合の好い場所とは言い難い。

 ――こんな場所に〈彼〉は居るのだろうか?
 そう思い始めた耀子の肩を、生温い風が撫でて行く。
(ひゃぁっ)

 何とも間の抜けた声を上げた耀子を無視しながら、迦具山は部屋の奥の方を指さした。

「貴方が、『うしろだ』さんですね。――いえ、『後眼』とお呼びした方が好いでしょうか?」

 埃っぽい室内にゆらりと黒い影が浮かび上がり、シルエットが立ち上がる動作を表した。
 警備員は迦具山の前に歩み寄ると、――その名前で呼ばれるのは、この間の黒い手袋のボウズ以来、二人目ですよ――と億劫そうに呟いた。

「あ、あなたは――ヨウカイさんなんですか?」

 恐る恐る耀子が発した質問に対し、またも唐突に迦具山の〈講義〉が始まった。

「僕が思うに、『後眼』というのは人面疔(にんめんちょう)や頭脳唇(ふたくち)と同じ『人面疽(じんめんそ)』の一種なんです。
 〈後眼痛(うしろめた)い〉事がある人間は、周囲からの見えない視線を睨み返すように、後頭部に眼球のようなものができる。初めは縦に皺があるだけだが、段々と周りの人間の心の動きまで読めるようになり、『死角』が無くなったように思えてくる。
 元々、五徳を具えていた手の指も、貪(どん)・瞋(しん)・癡(ち)の三毒に身を堕とし、最後には邪見――独りよがりで誤った考えである〈癡〉――を示す一本指を残し、坊主頭の男でありながら背徳的な女の衣に身を包み、自ら〈後ろ指〉を指している。
――まぁ、松井文庫『百鬼夜行絵巻』の絵解きはこんなところかな?」
 迦具山のレンズに隠された眼が、鋭く光ったように思えた。

 何と!――と、警備員は目を丸くした。
「いや、普段は帽子で隠しているし、第一他人には手術痕や古疵にしか見えない筈なンですが…偶に貴方のような〈能力〉を持つ方には見えるそうでして――あのボウズも『業(ごう)に報いろ』とか言っていましたね」

 そう言うと、警備員――後田(うしろだ)眼造(げんぞう)――は自らの身の上について語り出した。
「私も今は施設警備員なんて仕事をさせて貰ってますがね、若い頃は随分とやんちゃをして――若気の至りとでも言うんですかね。人前では口に出せないような大それた組織に居たこともあります。命(タマ)を取ることも厭わなかったし、他人より少ない指も――今となっては恥ずかしいことですが――ある種の勲章であるかのように思っておりました。
 しかし、五年ほど前に、奇妙なことに気付いたのです。相手の考えていることが何となく判り、そのお陰で命拾いしたことも少なくありません。初めのうちは『覚(さと)りのゲンさん』なんて徒名されてましたがね――そのうち、組の者や首領(アタマ)まで私を畏れるようになりました。」
 眼造は、遠くを見遣るような虚ろな表情を見せる。
「まあ、考えていることを見透かされている――というのは、誰でもいい気分ではありませんからね」
「――ええ。ですから、殺害(け)される前に雲隠れを決め込んだんです。
 初めのうちは自分の命を守ることしか考えられず、逃げるのに必死でした。
 でもね、今になって思うんですよ、これァ私に与えられた罰なんじゃないかと。『畜生』、『外道』と罵られ悦に入っていた愚かな身が、本当に『妖怪外道』の類いになっちまったんですから。いくら他人には気付かれ難いからといっても、ニィちゃんのいう通り、後ろめたさだけは消せないもんで…」

 その時、迦具山は一本の筆を取り出した。普通の筆とは異なり、筆先が鈍く落ち着いた虹色に輝いており、後ろの方には液体を流し込むためか栓がしてある。栓は黒ずんではいるものの神々しい銀の光を纏っている。
 後田さん、もう一度――と言いかける迦具山に、「後眼」は否、と小さく答えた。
「言ったでしょ? 私はもうウシロダじゃあ無い。――そうかい、ニィちゃん、『絵描き』だったのか。俺みたいなヤツのために、大事な墨を使うこたァ無いさ」
「でも、指だってあと三本ずつじゃないですか。直にあなたは――」
「なぁに、こんな生活だっていいモンさ。他人様の安全を想って仕事して、感謝されるんだから。俺には勿体ない『罰』なのかも知れねェがな」

 ――そうですか、と漏らすと迦具山は、人間界への扉に手を掛けた。
「それでは、僕らは失礼します。勿論、このことは他言しません――」
「言ったところで、誰も信じないだろうサ」
 「後眼」は乾いた声でカラカラと嗤った。

*   *   *   *   *   *   *   *   *

夜の街


 気が付けば、草木も眠る――などという枕詞とは縁遠いほどの喧噪だが、時計の針は既に午前二時を過ぎていた。所謂「丑三時」である。
 ねえ、迦具山センパイ――と、耀子は道すがら訊ねる。
「私――まだ信じられないんです。…その――ヨウカイがこんな町中に、しかも人間の姿で生活してるなんて…」
「まぁ、普段は人間と区別がつかないし、一般的には『ありえない』事なんだろうね。
 でも、彼等は実際にこの街だけじゃなくて、何処にでもいるのさ。ただ、普通の人には『霊視(み)えない』だけで――」

「ふ、普通は見えないって――それじゃ、まるで私達が――普通じゃないみたいじゃないですか?」

 その通りさ――と、迦具山は嘯(うそぶ)く。
「君は気付いていないようだけど、とても強い星廻りをしているね。ほら、自分の足元を見てごらん」
 えっ――と小さく呟き、耀子は恐る恐る自分の靴の方へと目を遣る。
 すると、

――仔犬だった。
――いや、仔猫かもしれない。
 それは、小さな毛玉のような、生き物のようなものであった。
 どんな生物図鑑にも載っていないような不思議な三毛猫のようなもの――その手足は極端に短く、その周囲のみに恰も重力が存在しないかのような形態(フォルム)である。

「何コレ!?かわいーい?」
 耀子は三毛猫のような毛玉を抱え上げようとしたが、毛玉は寂しそうな目をして、するりと耀子の手を擦り抜けた。
 ふわり、と地面に降りると、再び耀子の足元に鎮座し、嬉しそうに擦り寄って来る。

「そいつも、『脛擦(すねこす)り』という立派な妖怪だよ」
 迦具山はそう言って微笑みを浮かべた。
 耀子は抱き上げることを諦めると、屈み込んで毛玉――スネコスリという妖怪――を撫で始めた。
「こんなカワイイのも妖怪なんですか?」
 耀子は、スネコスリに頬擦りしながら訊ねる。
「そうだね、『妖怪は人間の心が生み出すもの』とも言えるから。想像する人によっても姿形を変えるし、負の感情から生まれたモノは自然と醜い姿となる。
 だけど、無垢な心を忘れない人間の前には、愛くるしい姿を現すことだってある。一つとして同じモノは居ないんだ。全てが個性的だから興味が尽きないんだけどね――」

 迦具山は、またしても〈講義モード〉に入ろうとしていたが、耀子の耳には全く届いていない。

(〈お化けのコト〉なんて言うからコワかったけど、そうじゃないのも居るんだ…)

 耀子の心には、これからも何故かスネコスリと一緒に居ることが必然であるかのように思えてきた。
 頬を刺すような冷たい一月の夜風は、耀子に唯一現実感(リアル)を与えるものだった。

(一ノ譚 了)


私ども羅盤舎(らばんしゃ)は、
世界中に伝わる神々や妖怪・妖精・悪魔など
人間の精神世界に棲むモノたちを
研究しております。



















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