今日、2014年2月28日は、
旧暦1月29日、小の月の「晦(つごもり)」
、月末です。
このコーナーが始まった1月31日(旧元日)から月が満ち始め、前回の2月14日の後に望(満月)から月が欠け始めました。このように
月の満ち欠けで「朔望月(さくぼうげつ)」は簡単に把握することができます。

今年は特に、1月1日が旧暦の12月1日と重なっていたので、徐々に太陽暦と太陰太陽暦がズレてゆくのを実感できますね。

さて、旧暦の正月は「寅の月」ともいいますが、月にも十二支が配当されていることは、前回理解していただけたと思います。
天空という巨大な「時計」に思いを馳せたところで、今回は
中国から日本へやってきた「時(とき)」の変遷
について、見てゆきましょう。

古代中国では天空の規則正しい動きを基に、「定時法」を用いてきたことを、前回述べました。
日本でも中国の律令制度を真似て、様々な官公庁や制度が作られてゆきました。その一つに「時(とき)」も含まれていました。
しかし、「時(とき)」というのは、直接目で見ることはできません。強いて言えば、時と共に移ろう草花や生き物の変化から、間接的に知るしかありません。そこで、古代中国では
「表(ひょう:日時計の一種。圭表:けいひょう)」と、「漏刻(ろうこく:水時計)」
を用いて暦を作り、時を刻んできました。
(因みに、現代中国語では、腕時計や懐中時計を「表(biao3 ビャオ)」と言います)
日本にも表と漏刻が輸入されますが、
この漏刻が日本の「時(とき)」に大きな影響を及ぼすことになるのです。



洛陽出土の表(漢代)
『天文図集』 P.42


唐吕才定四柜式漏刻

古代中国では定時法を用いるので、最初は漏刻の一番下の水槽(漏壷:ろうこ)に立てられた
矢(箭:や)
は1種類だけでした。しかし、百刻法から分ける刻数が120刻、96刻、108刻などと増えてゆくに従って、いくつか種類が出てきました。

さらに、『大唐六典』によると、
唐の時代には中国で不定時法(後述)に合わせて、二十四節気によって箭を2種類用いる
ようになっていました。

さて、
日本に輸入された漏刻は、中国から不定時法という「時(とき)」をもたらしました。

律令制度では天文や作暦も扱うため、定時法を用いるように定められていましたが、出仕(官公庁の出勤)時刻は日の出の頃であり、手のひらの太いシワが見えなくなる夕暮れまで働きました。
宮中には
漏刻による時報システム「時奏(ときのそう)」
が整備され、その様子は『枕草子』二六九段にも登場します。
この時点で、宮中には
「名目上は定時法、実際は不定時法」というスタイルが浸透
してゆきます。
また、輸入された漏刻ですが、
平安期には箭が23本(二十四節気によって使い分けるが、春秋分は同じ箭を用いる)
にもなり、水で動かすために維持管理が大変になってゆきます。陰陽寮の一部門で漏刻博士によって維持されていた漏刻は、次第に正しく運用されなくなってゆきます。『百錬抄』によると、天治2年(1125)に漏刻が焼失し、その後再興されましたが、順徳天皇の時代(1210年~)に時奏は廃絶しました。

一方、寺院では、法要や仏事などの予鈴として梵鐘(ぼんしょう:かね)を打っていましたが、
室町時代になると、日の出や日の入りを報せるために、鐘を打つようになります。

(それぞれ、暁鐘:ぎょうしょう、昏鐘:こんしょう といいます。)
寺の鐘は、単なる時報ではありませんでしたが、
庶民にも日の出・日の入りを基準とした「時(とき)」を普及させてゆきました。


江戸時代に入り、将軍家に西洋から機械時計が輸入されると、
日本の「時(とき)」である不定時法に合わせた「和時計」が開発される
ようになりました。
昼と夜の長さは季節によって変化するので、それを表現するために天符(テンプ:一定の速度で動くよう調整する脱進機の部品。フランス語のTempsの当て字か)を2つ使ったり、天符の速度を決める錘(おもり)の位置を細かく調整できるように天符を櫛(くし)のような形にしたりしています。
様々な工夫が施された和時計ですが、高価な上に、水時計と同様に細かな調整が必要であり、大名家などで専属の時計師がメンテナンスを行っていました。


和時計には、時計師の
意匠が凝らされる

さて、機械式の時計の登場によって、
太鼓で「時(とき)」をしらせる「時報」
が整うようになります。
日本では、中国の「時(shi2 シー)」に相当する言葉は「とき」ですが、「時」だけでなく「刻」とも書き、「こく」とも読みます。 庶民にも「明け六(あけむつ:卯の刻(うのとき、うのこく))」、「昼九つ(ひるここのつ:午の刻(うまのとき、うまのこく))」などといった「時(とき)」が普及してゆきますが、
ここで大きな齟齬が生まれます。

時報というのは、音によって「時(とき)」を報せるため、「時刻」しか表すことができません。和時計には「鐘打ち」というアラーム機能が付いたものもありましたが、鐘を打つタイミングは主に次のようなものでした。

①刻入りと正刻(せいこく/しょうこく)に打つ
②正刻のみ打つ


刻入りとは、時間の「開始時刻」であり、正刻とは、時間の中央、つまり「次の開始時刻まで半分となる時刻」です。
例えば、兵庫県明石市において、今日(2014年2月28日)の暁九つ(子の刻)は23:16~翌1:09です。刻入りは23:16、次の暁八つ(丑の刻)入りが1:09なので、子の正刻は刻入りから1時間53分の半分経った0:13となるのです。
なお、この場合は12:13が「午の正刻」となり、略して「正午」といいます。「正午」も季節によって11:44~12:15と変化しますが、平均すると12:00になります。このような時刻表示を「平均太陽時」といいます。原子時計による国際原子時(TAI)や協定世界時(UTC)が導入されたのは20世紀に入ってからであり、現在の「時(とき)」は地球や太陽といった天体の動きとは関係なく定義されています。

「一刻(いっとき:昼一刻=1時間51分~2時間34分、夜一刻=1時間25分~2時間8分)」を四等分していた「時奏」とは異なり、「時報」は正刻に鳴らされましたが、
音でしか「時(とき)」を知ることのできない庶民にとっては、音が無いあいだに、いつの間にか時間が替わっているので、「時報が鳴ったから、これから○の刻だ」と認識してしまいます。

どのタイミングで時間が始まるのかが判らないため、
庶民は漠然とした時間の中に打たれた「時報という点」によって、大まかに「時(とき)」を捉えていた
と考えられます。

このように、「時(とき)」についての認識が曖昧になると同時に、
「時(とき)」の名前についての知識も失われてゆきました。

誰でも書き込める百科事典的な某サイトにもあるように、現代では「9を一つの単位としたので、九つの次は9×2=18で八つ、更に9×3=27で七つ、9×4=36で六つ、9×5=45で五つ、9×6=54で四つ」という、根拠の無い数式が、もっともらしく信じられているのです。
術数に無関心な漢文翻訳者や科学史家にも、このような牽強付会極まりない説を信じる御仁が居られるのは、なんとも残念な状況です。

これらの数は、『五行大義』第三、二、論支干数にもあるように、
十二支の別数(べっすう)に由来しています。


最後に、
時代劇に登場する「丑三つ時」
についてですが、これまで見てきたように、江戸時代では不定時法を用いていたので、
季節によって異なります。
冬至では1:48~2:20の32分間、夏至では1:08~1:29の21分間です。
これを、古代中国のような定時法を用いると、季節に関わらず、およそ1:41~2:11の30分間となります。
時代劇で「時(とき)」が登場したら、劇中の季節によって長さが11分間も変化し、開始時刻もバラバラ
ということを思い出すと、これまでと違った楽しみ方ができるかも知れませんね。


ということで、二回に分けて「時(とき)」について見てきましたが、断易や紫微斗数、四柱推命、六壬式占、九星気学、六壬神課などの
東洋占術では、占われる対象や占いを行う場所における太陽の南中時刻を基準とした「真太陽時(地方時)」、つまり定時法を用います。

占いの種類によって、「どこの」、「どういった」時刻を用いるかが変わってくるので、それぞれの分野による違いを身に付けることが基本となってくるのです。

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